緊迫!密室ゲーム2
突然ですが、皆さんは武術や格闘技の経験があるだろうか?
よく漫画などで、武術を極めた師範のような奴や、直観や戦闘センスを生かして奔放に戦う野生児みたいな奴が描かれる。
だが、これは漫画の世界だけの話ではない。こういう奴は実在するのだ。
今日は私が嘗て、実際にそんな男と対峙したときのことを話したい。
私がまだ高校三年生だったある日、私は友達と二人で買い物へ出かけた。
しばらく買い物を楽しんだ後、帰るために電車に乗ることにした。時間は帰宅ラッシュの少し前だったので、大きく混雑はしていないものの、それなりに乗客がいた。
私たちはまだ比較的空いている車両に乗り、並んで座った。私の左隣に友達が座っていて、右隣はまだ空いている状態だ。
私たちの向かい側の座席では、仕事帰りと思しき男性がスマホをいじっていたり、これまた仕事帰りであろう女性がタブレット端末をいじったりしていた。
電車の出発を待ちつつ、友達と喋っていると、空いていた私の右隣に一人のおじさんがドカッと座った。
年齢は六十代くらい。黒の革ジャンを着ていた。歩き方や座り方からやや粗暴な印象を受けたものの、不潔感や酒に酔った様子はなく、一般的な大阪のおじさんという雰囲気の人であった。
そして、おじさんが座ったタイミングで電車はドアを閉め、出発した。
電車が動き出してから数十秒、異変が起きた。唐突におじさんが口を開いたのだ。
「今日日の女は電車でタブレットいじるんかい!電車でよぉ・・・・・・タブレットー!」
おじさんは、私たちの向かい側に座ってタブレット端末を操作している女性に大声を上げ始めた。
もぉ~!やめてよ~!
そう思った。
隣の人が大声で他者に絡むタイプの人だった。最悪だ。
同時に、車両内の空気は緊張感を帯びた。謎のおじさんの台頭が、人々の気を引き締めたのだ。
そもそも、おじさんが何故、憤っているのか、誰も分からなかった。電車でタブレットを使用していることに怒っているのだろうか?だとすれば、スマホは良いのか?それとも、女性がタブレットを使用するのが気に入らないのだろうか?なんで?
謎は多く、いずれにせよ、おじさんの怒りに正当性は感じられなかった。
そう考えているあいだも、おじさんは「女がタブレットかい・・・・・・今日日の女はよぉ」などと言っている。向かいの女性は顔をしかめつつも、おじさんを無視していた。
私はといえば、必死に平静を装いながら、友達とお喋りしていた。
この日、一緒にいた友達は女子だったのだ。こんなおじさんの台頭に狼狽えるような情けない姿は見せたくない、という男子高校生の小さなプライドがあった。
しかし、私たちも常に喋り続けているわけではない。
会話には波がある。一つの話題が終わり、次の話題に移行するまでの息継ぎの間であったり、笑いあったりした後の間であったり、である。
そして、そこをおじさんに突かれた。
私と友達の会話が一瞬途切れたその時、おじさんは私を見て言った。
「なあ、兄ちゃん、どう思うよ?今日日の女は電車でタブレットやで?」
最悪だ、難しすぎる!
私は脳をフル回転させ、最善の回答を探した。
無視してしまおうかとも思ったが、無視するには、私とおじさんの間合いは近すぎた。
逃げきれない。戦うしかないのだ。
この時、私には二つの思いがあった。
一つは、先述した、女子に情けない所を見せられないという、男子の小さなプライド。
もう一つは、国語マスターとしての意地だ。
この当時、私は通っていた高校でトップクラスの国語の成績を誇っていた。そんな私が、こんな素性の知れぬおじさんに負けるわけにはいかなかった。これまで培ってきた国語力で、おじさんを言い負かす。
この二つの熱い思いを胸に、私は言った。
「まあまあ・・・・・・まあ、ね?」
「ま」、「あ」、「ね」
五十音中、国語マスターが発したのはわずか三音であった。
教育の敗北。
現場において偏差値など無意味。
そう痛感した。
すると、おじさんは「いや、まあまあ、じゃなくてさあ~」と言って、ため息をついた。やれやれ、と言わんばかりの風情を滲ませている。
なぜ、こんな目に・・・・・・。
私は知らないおじさんに失望されているのだ。そして、なぜかそれがショックだった。
私とおじさんとの間に流れる沈黙。周囲の人々には、もはや、おじさんと私の二人連れのようにも見えたはずだ。
おじさんは私に失望し、私に対する興味を失ったのか、スマホをいじり始めた。
スマホは良いんや。
おじさんは電子端末全般ではなく、あくまでタブレット端末に怒っている。私はまた一つ、彼のことを知れた気がした。
そこで突然、左から声をかけられ、ハッとする。
そう、私は友達と出かけていたのだ。友達と私の二人連れ、これが本来の姿だ。
先ほど、おじさんに打ち負かされ、深手を負っていたが、そのことを悟られぬよう、友達とお喋りを再開した。
しかし、この後、私はまた急襲されることとなる。
友達との会話が途切れた瞬間、「なあ、兄ちゃん」とおじさんの声がしたのだ。
こいつ、マジでなんかの手練れか?
そう思った。
こちらの会話の波を見切るのが上手すぎる。そして、無視はできない間合い取り。
私は仕方なく、おじさんを見た。
「なあ、兄ちゃん。さっきはごめんな」
予想外の言葉であった。私は狼狽えた。
「いえ、はい」
またしても、三音。自分の限界が見えた。
それでも、私の心は軽かった。
先ほど、私はおじさんを失望させてしまったにもかかわらず、おじさんは再び歩み寄ってくれたのだ。優しい一面もあるじゃん。おじさんを好きになりかけている自分がいた。
だが、私はそこで気づく。
大声や冷たい態度による精神的圧迫と、ふとした瞬間のやさしさを 使い分ける。これはDVと同じシステムだ。
おじさんは続けて言う。
「兄ちゃん、B駅って銀行ある?」
私たちが乗っているこの電車はいま、友達の最寄り駅であるA駅に向かっていた。そして、A駅からさらに5駅ほど通過したところにB駅はあった。ちなみに、私の最寄り駅はB駅からさらに進んだC駅だった。
→【電車現在地】→【A駅】→【5駅ほど】→【B駅】→【C駅】→
という感じである。
「いや、ちょっと分からないです」
私は正直に答えた。
おじさんは、そうか、とだけ言った。B駅周辺の銀行情報を持たない私におじさんは再び失望したのか、前へ向き直った。
私は焦っていた。
その時、電車が止まり、「Aです。お降りの際、お忘れ物のないようご注意ください」と車掌が告げた。
焦る私。すると友達が「一緒に降りよう」と小さく言って、私を引っ張った。
めちゃめちゃ気が利く人だ。
おじさんの目的地は、発言の内容から、B駅である可能性が高いと推測できた。A駅で友達が下りてしまえば、C駅を目指す私はここから本当におじさんと二人連れになってしまう。国語マスターの語彙力を以って、この時の心情を描写するならば「そんなんいやや~!」である。
そんな状態の私に、友達はさりげなくも、最高のサポートをしてくれた。
友達に続いて電車を降りているとき、本当に感謝の気持ちしかなかった。
ホームに立った私は、いまいちど乗っていた電車を振り返った。最後に安全な場所からおじさんを見ておこうと思ったのだ。
すると、おじさんはホームに居た。
いや、ここで降りるんかい。やとしたらB駅の銀行の話は!?
困惑と怒りを覚える私をよそに、おじさんはそのまま雑踏の中へと消えていった。
武術の達人のような技術を持ちながら、予測不能の獣じみた奔放な動き。
高三の私は完敗したが、今の私ならばいい勝負ができるのだろうか?
私は今でも電車であのおじさんと再会できる日を待っている。